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礼拝Worship

  メッセージ > 先週までの礼拝 > 2023年6月18日

先週の礼拝

6月18日(日)10時30分より
メッセージ:「何を誇るのか?」
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅱ12章1-10節
説教者:浅輪一郎伝道師

※どなたでも視聴できます。

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パウロが書いたコリントの信徒への手紙から私たちに示されている誇りについて導きを求めます。

1節:パウロは「誇らずにはいられません」と述べています。しかし10章10節を見てみますと、彼は信徒(キリストにあっては同じ兄弟姉妹)から散々な言われようをしていたことが記されていますから、仕方なく語ろうとしたのかもしれません。古代の宗教では宗教的な体験というものは神様からの恩恵と見なされていたと言いますから、パウロも自身の宗教的体験を切り札として語ろうとしたのでしょう。
2節:「キリストに結ばれていた一人の人」とはパウロのことです。パウロは自分のことを誇る際、自分の中にあたかも二人の人間がいるかのように語ります。一人はキリストとしっかり結ばれている自分。そしてもう一人はこの世的に生きる自分です。そして前者の方の自分は「十四年前に、第三の天にまで引き上げられた」と言います。この経験については、パウロも詳しく語ろうと思えばそれも出来たはずですが、2、3節では「体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」と二回も繰り返して言っていることに目が止まります。そうしますとパウロ自身も、そのような神様の領域に関わる体験については、その全てについて知ることも、口にすることも許されていなかったのでしょう(4節)。
5節:しかし、それでも何かを誇るとするならば、このようにキリストと しっかりと結ばれている人のことを誇りましょうとパウロは言います。
6節:そして「仮に、わたしが誇る気になったとしても真実を語るのだから愚か者にはならない」とも言いかけるのですが、パウロは「誇るまい」と急ブレーキをかけます。
7節:なぜなら人々が、パウロの体験を知って、彼を過大評価するようなことがあるかもしれないからです。また、啓示されたことについては、いくらパウロでも神様ではありませんから、その素晴らしさについては十分に言い尽くすことが出来ないからです。「それで、そのために思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられた」と言います。このとげについては、肉体的なもの(てんかん、頭痛、目の病気)のみならず、精神的なもの(かつて教会を散々迫害してきた記憶から生じる苦悩、教会の兄弟姉妹から理解されない苦悩)が考えられているそうです。
8節:パウロはこのとげを取り除いてくれるよう願います。
9節:「すると主は言われました。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で発揮されるのだ』」
10節:するとパウロはもはや、「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態であっても、キリストのために満足している」と言い切ります。かつてパウロは全てを手にしていました。弱さの反対=強さ、侮辱の反対=尊敬、窮乏の反対=裕福、迫害の反対=保護を手にしていました。そして行き詰まりの状態の反対=順調な状態にありました。しかし今は、そのようなものは何一つありません。弱さ、侮辱、窮乏、迫害しかありません。そして行き詰まりの状態にしか置かれていません。しかしパウロはそのような時であっても、いいえ、そのような時こそ私は強いのだと言い切るのです。
ではパウロは、何故、そこまで力強く言い切ることができたのしょうか?
コリントの信徒への手紙二、13章4節です。
「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちも、キリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
パウロが私は弱い時にこそ強いと言い切ることができた理由。それは、パウロが出会わされた神は、そしてパウロばかりではなく、私たちも出会わされている神は、人となって御自身が弱い者/貧しい者となられたからであります。このお方は飼い葉桶にお生まれになりました。そして十字架において死なれました。しかし、このまさに一番弱いと思われていたお方が復活をされて、そして共にいて下さる。自分が弱いとしか思えない時に、それでもなお共にいて下さる。その確信ゆえに、パウロは、自分の弱さをも誇りと変えることが出来たのです。
(結語)
私たちも、もし私たちの側に何か誇るものがあるとするならば、それは私たちの弱さであるのでしょう。私たちがキリスト者であるということは、たとえ私たちが、強さ、尊敬、裕福、保護といったものを持っていなくても、たとえ私たちが順調な状態に置かれていなくても、私たちの内にはイエス様がいて下さる/私たちに命をお与えになる本当に強い方がいて下さるということなのです。この確信ゆえに、私たちもこの一言が言えるようになるのです。「私たちは、弱い時にこそ強い。」




前   奏   - とうときわが神よ -   F.ゴットシック
招   詞   詩編 18編16節(下記)
賛   美   讃美歌21-339(1,2,4,6) 来たれ聖霊よ
主の祈り  
聖   書   コリントの信徒への手紙二12章1-10節 (新約p.339)
祈   祷
黙   想
説   教   「何を誇るのか?」       浅輪一郎伝道師
祈   祷 
賛   美   讃美歌21-469(1,2,3,5) 善き力にわれかこまれ
献   金  
感謝祈祷
賛   美   讃美歌21-28 み栄えあれや
祝   祷                   小野慈美牧師
後   奏
幼児祝福式
分かち合い

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あなたは救いの盾をわたしに授け/右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り/わたしを強い者としてくださる。(詩編18:36)


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