思い悩まないで (2011年度3月号より)
ある本に、私たちの思い悩みは大きく分ければ二種類あると書かれていました。一つは「過ぎ越し苦労」です。もっと優しい言葉をかけておけばよかった…、どうしてあの時に決断できなかったのだろう…など、すでに過ぎてしまった過去に心が捕らわれてしまい、後悔と自責の念が消えず、厳しい現状を受け入れることもできず、思い悩む「過ぎ越し苦労」です。
もう一つは「取り越し苦労」です。これから新しい生活がやっていけるだろうか…、人間関係は大丈夫なのだろうか…。明日のことを思い安らげないのです。何が起こるかわからない。そうやって人間は「明日」を思い、思い悩みながら、明日からどうなるのか分からないために、「取り越し苦労」をはじめるのです。これらはいずれも<過去>や<未来>のことです。決して<現在>のことではありません。明日のことが安心できたら今日を生きよう、と言うのは、神様に造られた人間の倣慢でしかありません。
イエス様は思い悩むことが、どれほど神様の愛の呼びかけに対して心をふさいでしまうかをよくご存知でした。種まきのたとえの中では、<茨の中に落ちた種>は芽を出しても世の思い煩いによって御言葉が完全にふさがれてしまいます(マタイ13:22)。また、イエス様と弟子達を家に迎え入れたマルタとマリアの家では、そのおもてなし準備で大忙しでした。マルタは接待に忙殺されてイエス様に訴えます。「わたしの妹がわたしを放っておいて、わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。妹マリアがイエス様の足もとに座ってみ言葉に聞き入っていたからです。これに対してイエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(ルカ10:38-42)と言われました。マルタの熱心なあまりの思い悩みは、イエス様のお言葉に耳を傾けることから遠ざけてしまったのです。
イエス様ご自身が、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と語ってくださいました。
わたしたちの「明日」はわたしたちの手の中にはありませんけれども、すべてのことは父なる神様のみ手の中にあることを信じて、思い悩むことなく、イエス様のお言葉に励まされて「今」を生きていきましょう。
牧師 森島 惠
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