これに聞け (2010年度1月号より)
思いがけない出来事に悲しんだり、落ち込んだりするとき、“どうしてこのようなことが私の身におきるのか”という問いを誰しも持ったことがあるでしょう。自分のことでなく誰かのことであっても、“あんなに真面目に一生懸命やってきた人なのにどうして…”とか“クリスチャンなのに、そんなことがおこるのか…”という問いを抱いたことがあるでしょう。
私もそうでした。“どうしてこんな悲しいことが、辛いことがおきるのですか?神様どうしてですか?”
この問いを神様にぶつけ続けていた日々がありました。けれども、ある牧師の説教に出会い、このなんとも言いようのない思いが涙で溶かされるような経験をしました。
先生は、そのような問いを持つ時、ひとつの落とし穴があるとおっしゃいました。つまりその問いそのものが正しいのかどうかということです。
問いが間違っていれば、答えも当然間違うわけです。
一生懸命やっているのに、信仰をもっているのにうまくいかない…というのは、この世界で良いとされていること、すでにこの世にある価値(勝利や成功など)に見合っていない、合致していないというところから出てくる思いであって、聖書が価値をおいているもの、栄光とよんでいるものとは違うというのです。
では聖書が価値をおき、栄光ある事としているのは何なのでしょう。
ルカによる福音書9章28節からのみ言葉に触れましょう。ここは山上の変貌、山上の栄光とよばれているところです。
イエス様がご自身の死と復活を予告され、その後弟子を連れて祈るために山に登られます。祈っておられるうちイエス様の姿が変わり、モーセとエリヤが現れ、栄光に包まれて三人は話しています。
栄光というのは、この世的に言えば、勝利とか華やいだ賞賛されるような状況の中で使われる言葉です。
しかし栄光に包まれた三人が話していたその内容は、エルサレムでイエス様が遂げようとしている十字架のことでした。
十字架の出来事は、この世の価値観からいえば、“あれほどの人物も最期は惨めなものだった”と結ばれるものでしょう。
しかし聖書は、この十字架こそ栄光としているのです。
色々なことに行き詰まり、自分はだめだと思っている人にも、病気やけが、老いの中で、今まで通りでない自分を嘆いている人にも「あなたが大切だよ」と十字架の死をもって私たち一人一人に価値をおいてくださったこの出来事が、栄光そのものなのです。
『これは私の愛する子。これに聞け』(マルコ9:7)とあるように私たちは神様の言葉こそに耳を傾けていく必要があります。
これに聞くということは、この世の価値とは違う道を選びとるということです。これに聞くということは、束縛されることでなく他の様々な声から自由になるということです。
今年も、教会学校で神様の言葉を共に聞いていきましょう。
中高科担任 A.K
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