イエス様は今も昔も共に (2009年度6月号より)

 大好きだったものが何かのきっかけで、そうでなくなる、という経験がありますか。私は子どもの頃、鉄棒に興味を持ち、少しずつ難しいことに挑戦し、上手になっていくことを喜んでいました。ある日、たまたま通りかかった公園で鉄棒を見つけ、練習を始めました。両手、両足で鉄棒の上に立ち、勢いをつけて回った瞬間、自分が思い描いていた弧を描けず、地面に思い切り体を打ち付けました。何故そうなったのか腑に落ちず、遊具を確かめてみたところ、2本の支柱の間の鉄棒が固定されておらず、少し動きました。そのことがあってから、鉄棒への興味は薄らいでしまいました。
また、子どもの頃に大好きな食べ物を食べ過ぎて気分が悪くなり、その後はその食べ物を見ても「おいしそう」とは思わず、口にしなくなったという経験もあります。

 イエス様にはペテロ、ヤコブら12人の弟子のほかに、大勢の弟子がいました。しかし聖書には、イエス様が「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」と話された後に、誤解した多くの弟子が「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」と言い、「イエスと共に歩まなくなった。」とあります。イエス様の言葉を喜んで聞き、奇蹟を目の当たりにし、イエス様こそ神様の子どもであると告白した弟子達が、一つのつまずきにより、イエス様から離れていったのです。大好きだった鉄棒遊びや、大好物だった食べ物に、何の未練も感じなくなるように、多くの弟子がイエス様から離れていきました。

 私達は、思い通りに物事が進まなかったり、期待を裏切られたり、嫌なことや悲しいことが重なるとき、また、誰も信じられないと感じたり、何を拠り所としていいか分からなくなるとき、「神様は、私の今の状況をご存知なのか」「神様は何も手を差し伸べてくださらないのか」と思ってしまうことがあります。小さなつまずきです。神様を信頼しているはずなのに、小さなつまずき一つで不安になってしまうのです。私はなんと移ろいやすいのでしょう。

 イエス様は多くの弟子が離れていったとき、12人の弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」とおっしゃいました。そのときのイエス様の眼差し、弟子達の驚きと悲しみを想うと苦しくなります。私がその場に居たら、なんと応えたでしょう。しかし、私の移ろいやすさをご存知のイエス様は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)とおっしゃいました。その力強いみ言葉によって、私は今日も生かされているのです。私のそばに、いつも居てくださるイエス様を感じることができるのです。私達は、イエス様から離れなかった弟子達、その弟子達に従った多くの方達の後姿を見ることができます。2000年前も今も変わらない、イエス様の大きな愛に感謝します。

Y.K


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