すべてに時がある (2008年度7月号より)
旧約聖書コへレトの言葉3章は「何事にも暗があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉で始まり、生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時と、私たちの生活すべてに神様の備えた時があることを告げています。
最近私は、とても大切な恩師とごの世のお別れをしました。それは突然のことで、私には受け入れがたいものでした。信じられなくて、先生のお宅に伺って、初めて現実だと気付くことができたのです。その時、イエス様との別れが決定的になった時声をあげて泣いたベトロの気持ちがわかったような気がしました。本当に私にとって、その時は突然だったのです。先生の死を受け入れた後は、後悔が私を襲ってきました。もっと先生のお話を伺っておけばよかった。もっと時間があったらこれも聞きたかったのにと、とりとめもなくそんな思いが心をめぐっていき、次には「なぜ」「早すぎるではないか」といった、悔しさが起こりました。これは神様の時と私の時が絶対的に違う事を知らされることでした。
私たちは自分の思い通りにならないことがあると、意識していなくても、自分以外のものに原因を求める事があります。人にはどうにもできないような受け入れがたいことが起きたり、身近な人の死に直面すれば、神様のせいにして、神様に怒りを覚えることもあります。これが罪なのです。クリスチャンであった先生の葬儀で、ご家族の皆さんは「彼の行くところは神様のところだから安心です」と言われました。「この世での別れの悲しみはあるが、神様は一番いい時に彼を召して下さった」と、証されたのです。これが全てを神様にお香ねし、神様の時を第一とする姿だと思いました。私はまだまだ自分優先で、自分の時で物事を考えてしまうものですが、そんな私の罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったことを思い、このイエス様に希望をおきながら歩んでいきたいと思います。
幼稚科担当 C.T
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