エマオへの途上  (2006年度4月号より)


 教会学校も新年度を迎え、先週の進級式に引き続き、スタートがイースターと言うのは私たちクリスチャンにとってなんと嬉しいことだろうと感慨に浸っています。
イエス様が私たちの罪の為、十字架に架かって死んでくださったその三日後、私たち人間にとって避けられない最も暗い問題であるその死にも打ち勝って復活なさった喜びを祝う日です。
 聖書には復活なさったイエス様の記事がいくつか載っておりますが、私はルカによる福音書24章13節から35節に記されている二人の弟子がエマオへの道の途中で復活の主とであった記事を読むと、CS教師を始めた頃ある方がおっしゃってくださった「この時のイエス様の姿勢をCS教師も見習いたいものだ。」と言うのを思い出します。
 エルサレムからエマオという村に向かって二人の弟子が歩きながら十字架の出来事を話している時のことでした。二人は十字架の出来事を無念に思い、また逃げてしまった自分たちの不甲斐無さにさぞかし落胆していたことでしょう。復活なさったイエス様はご自分の方から二人に近づき、一緒に歩かれました。一切のことをご存じないはずはないイエス様はあえて「話していることはなんのことですか。」とお訊ねになります。それは落胆している二人に話しをする機会を与えられたのです。
相手の感情に共感しながら話を聞くことこそイエス様が示されていることです。
決して頭から「どうした。ガンバレ。私が復活すると言うことを信じられなかったのか。」などとおっしゃいませんでした。弟子たちは自分たちの経験したこととその時の感情を再体験しながら話したことでしょう。
弟子たちが話し終えたところで初めて御自分の復活について話し始めます。この時点ではもはや弟子たちの感情が逆撫でされたり、人格が傷ついたりしなかったでしょう。何故なら後で「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていた」と振り返っていることからも推測されるのです。このことで二人の弟子たちは復活の証人として立つことが出来るように整えられたのです。
CS教師をかなりの間勤めさせていただいていますが、このエマオの途上のイエス様のようにすることはとってもむずかしくて、まだまだ出来ていません。しかし、これだけは言えると思います。
 私たちにはこのイエス様がいつも付いていてくださっています。何の心配も無く歩んで行って良いわけです。

教会学校 校長


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