主の手足になろう (2006年度2月号より)
1月22日、私は小学科の説教をさせていただきました。前日からの雪で、いつもの3分の1の人数でしたが、前の方数列に子どもたちが集まって座っていました。
私は説教をする時いつも、聖書のみことばを語れる嬉しさと同時に、充分な準備が出来なかった後ろめたさを持ちます。でも、子どもたちの前に立つと、たとえようのない喜びが溢れます。それは子どもたちのやさしいまなざしと、神さまからのメッセージを求めているその真剣さを体いっぱいに感じるからです。そしてその喜びは話している間ずっとわたしから離れず、むしろずんずん私を通して神さまが積極的に語ろうとしているように感じられるのです。神さまは、そこにいる一人ひとりに直接語られているのだと思います。まさに説教は神さまの業であり、私はただ参与しているにすぎません。
マタイによる福音書9章35節から10章4節がこの日与えられた聖句でした。私は話し始めました。「イエスさまは町や村々を巡り歩き、神さまのすばらしさを伝え、病気で苦しむ人々を癒し、本当に毎日忙しく働かれていました。人々は益々イエスさまを慕い、病気を治して欲しい人が日に日に増えていきました。多くの人々の求めすべてにイエスさまは応えられません。イエスさまは一人ですから」。すると一人の男の子が、「誰かに協力してもらう」と言ってくれました。そうです!教会学校の子どもたちは、聖書のお話の先を充分に察することができるのです。心の中で想像しているのです。私は話を続けました。
「そう!イエスさまは弟子をお選びになりました。神さまの愛を語る力と病気を治す不思議な力も弟子たちに与えました。」そして私は礼拝堂を歩き回り、そこに座っている教師や子どもの前に立つと、「私に従って来なさい」といって手を差し延べました。不思議に誰も断ることなく前に出てきてくれました。声をかけた人には弟子の名前の頭文字カードを手に持ってもらいました。12人が前に立ちました。それぞれ胸には「ペ」「ア」「ヤ」「ヨ」「フィ」「バ」「ト」「マ」「ヤ」「タ」「シ」「ユ」のカードが並びます。子どもたちに尋ねました。「ペはだれ?」すると何人もの子どもたちが「ペトロ!」「ペトロ!」と叫びます。
「アは?」すると、子どもたちから「アブラハム!?」「アダム!?」「アンデレ!?」といった具合です。私は内心、「聖書の○○を開けて下さい。弟子の名前が書いてあります」というつもりでした。でも12人の弟子の名前を子どもたちは最後まで順に言い当てたのです。読者の皆さんはイエスさまの弟子の名前をご存知ですか。
岩と名づけられたペトロ、その兄弟アンデレ、「雷の子」というニックネームのヤコブ、初代教会で中心的な働きをするヨハネ、ベツサイダ出身のフィリポ、ナタナエルとも呼ばれるバルトロマイ、疑い深いトマス、徴税人マタイ、目立たなく小さなヤコブ、愛された者という意味の名のタダイ、熱心党のシモン、イエスを裏切ったユダ、以上12名が弟子として選ばれイエスさまと同じように伝道に励み、病気を癒し、人々の間に派遣されて行きました。「神さま、私たちをどうぞ用いてください。イエスさまのお弟子さんとしてください。」と祈り、話を終えました。
さて、教会は神さまのひとり子イエスさまの働きに参与していくところです。その教会に集まっている私たちは一人ひとり神さまに選ばれていて、神さまを信じ、イエスさまと一緒に働く使命を持っています。教会に集まってくることが、もうすでにその使命へと招かれているのです。何も心配はいりません。神さまは不思議な方法で私たちを用いてくださるからです。そして一人ひとりのタラントをそのまま生かしながら、愛に満ちる神さまの国を創り上げようとしていらっしゃるのです。勿論、私たちにはそのすべてをはかり知ることは出来ません。ただ神さまは、ひとりでも救いにもれる事のないように、また永遠のいのちをくださるために、今日も私の心の戸をたたいてくださっています。みことばを語る者、賛美する者、献金する者、掃除する者、奉仕する者皆が主の手足となって神さまをほめたたえています。私はこんな奇蹟が毎週起こっている礼拝に来ずにはいられません。
小学科6年担当 C.T
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