わたしは、イエス・キリストを救い主として信じます!! (2006年度1月号より)
高校3年生のクリスマスに、私は信仰を告白し、バプテスマをさずけていただきました。人前で話すことが苦手だった私としては、一番大きな声で宣言をしました。クリスマスは毎年やってきますが、不思議なことに、毎年与えられる喜びは違います。救われた喜びを感謝したり、神様を賛美できる喜びを感謝したり、神様の、独り子をお与えになるほどの愛の深さに喜んだり、御子イエス様の誕生は、十字架にかかり、私たちの罪を救うためだったのだと罪を悔い改めたり・・・。
今年、フェルトでできた、25日までしかないアドベントカレンダーを買いました。日付がポケットになっていて天使、羊、博士、ヨセフ、マリア、そしてイエス様など人形が25こついています。日付の上には小さな馬小屋が描かれています。その周りに、人形を毎日つけていきました。小さなカレンダーは、考えながら人形をつけていかないと、25日にイエス様が入らなくなってしまいます。日に日に、カレンダーの馬小屋がうまっていきました。毎朝が楽しみでした。
このカレンダーの中には当時国を治めていた王や身分あるもの、救い主の誕生を待っていた祭司や学者たちがいません。彼らはイエス様を救い主と信じなかった、もしくは自分の地位がおびやかされると思っていたといいます。神様は全ての人を愛しています。神様は貧しい人たちや弱い人たちだけを愛しているのではありません。また、地位のある職につくことや金持ちになることがいけないとも聖書に書かれていません。でも、その地位に優越感をもったり、弱いものをないがしろにしたりすること、神様よりもお金を第一とすることがいけないと聖書の中に書かれています。「人は二つのものに仕えることはできないのです。」とあります。この世で地位やお金があるなら、それらを弱い人のために使いなさい、神様に捧げなさい、と。当時の地位あるものたちが、自分たちの地位やお金に気をとらわれず、神様を追い求めていたなら、イエス様の誕生を祝いに行ったのではないでしょうか。
自分自身に置き換えたとき、私には地位やお金があるわけではありませんが、世の中の価値観から見て「恥」と感じることや、自分のことを人に認めてもらいたいという思いが、私は神様の示してくださる道からそらさせていると思います。そのとき、「イエス・キリストを救い主として信じます。」と宣言する後押しをしてくれた言葉を思い出します。『雪のたから』(パトリシア・M・セントジョン作 いのちのことば社)という本の中にでてくる、おばあさんが孫に言った言葉です。
「あなたが朝起きたときに、この部屋の雨戸がしまっていて、部屋が真っ暗だったら、まず、この暗闇を追い出してから、雨戸をあけて光を入れようと思うかしら。」
(孫)「もちろん、そんなことはしないわ。雨戸を開けるわ。そうしたら光が自然に入ってくるんですもの。光が入ってくると(暗闇は)どこかへ行ってしまうわ。」
「イエス様にお心の中にお入りくださいとお願いしたら、それと同じことが起こるのよ。愛であるイエス様が入ってくると、憎しみもわがままもみんな消えてしまうのよ。」
イエス様のご降誕をみんなで祝いましょう!Merry Christmas!
高校科担当 A.K
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