主の日に礼拝をささげましょう (2005年度7月号より)
先日おいしい紅茶が飲みたくなり、砂時計を取り出して茶葉を蒸らす3分の時間を計っていました。さらさら流れ落ちる砂を見ていましたら、「時間の使い方は命の使い方」という言葉を思い出しました。忙しい、忙しいと毎日を駆け足で過ごしている私の背中に、小説「モモ」に出てくる黒い服を着た時間泥棒がこっそり忍び寄っているのではないかとふと思いました。3分は短い時間ですが、じっと待っていると案外長いものです。でもこの3分は紅茶がずっとおいしくなるために必要な時間なのです。
さて、今年度、私は毎週小学科の礼拝に出ています。心から主を賛美する子どもたちの歌声に始まる礼拝は喜びに満ちています。しかし、子どもたちの様子を見ていますと、今も昔もあまり変わらず礼拝の時間を静かに守ることは難しいようです。
礼拝中に隣の人とつつきあったり、おしゃべりしたり、後ろを向いたり、足をばたばたさせたりと忙しく過ごしている子どももいれば、一生懸命耳を傾けてお話を聞いている子どももいます。お話が終わると緊張が緩むのか、献金のときはざわざわと色々な音も聞こえます。子どもたちの大好きなイエス様は、静かに礼拝をささげている子どもも、騒がしくしている子どもも同じように愛してくださり、つねに心の扉を叩いてくださっています。
心の扉を開けるか、開けないかは子どもたち自身が決めることで、無理やりこじ開けることは誰にもできません。礼拝の時間をどう過ごすかも一人ひとりの心次第です。
「隣の子がぶってきたから蹴飛ばした。」「たまごっちやカード交換のことがどうしても頭から離れない。」「テストのことが気になって仕方がない。」などというとき、礼拝堂の椅子に座っているだけで、心は閉じたまま、たださらさらと時間だけが過ぎてゆくように感じます。すべての人に平等に与えられた同じ時間でも、その使い方、過ごし方によって得るものは違ってくるように思います。
教会学校で過ごすひとときが楽しい時間であるように願っています。日ごろのストレスを解消できるひとときであるのも事実でしょう。しかし、教会学校の「楽しいとき」が「友だちとの交わりのひととき」だけにあるのではなく、「心を開き、神様の愛を受け入れる礼拝をささげるとき」にこそあるのだということを、教会学校に通うこの若い日々に覚えてほしいと心から願っています。
「聞く耳のある者は聞きなさい。」とイエス様はおっしゃっています。素直に心を開き、主の御言葉を聞く耳をもつ者になり、主の日に礼拝をささげましょう。
小学科1年担当 T.A
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