成人科の学びより (2011年度3月号より)
『敵を愛することが出来ますか?』
<マタイによる福音書5章43節〜48節>
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
「本当にこんなことが出来るだろうか」というのが、この聖書の個所を読んだ時の一般的な感想でしょう。旧約聖書には「敵を憎みなさい」という言葉はありません。ただ、詩篇の中には「復習詩篇」と呼ばれるほど、敵に対する復讐の願いが込められています。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。敵とは文字通り私の「敵」です、私を憎む者です。迫害するものとは、私を憎む者であり、私をいじめる者です。そんな人を愛せるだろうか?いや、隣人でも愛することは出来ないかも知れない。勧善懲悪という言葉があるように、善をすすめ悪を懲らしめるのが本当ではないだろうか?
よく考えて下さい、もしイエスさまが本当に悪を滅ぼしたら・・・わたし自身を含めて人類は皆滅ぼされてしまうのではないでしょうか。イエスさまは、罪人である私たちを赦し、愛して下さるのです。そのことに気が付いたとき、このイエスさまの言葉に大きな喜びを感じたのです。
私の尊敬するある牧師が言われました「嫌いな人がいたら、その人のために祈ることです。祈った相手を憎むわけにはいきません」。以来、私は嫌な人、嫌いな人のために心をこめて祈ることにしています。イエスさまは「自分の兄弟にだけ挨拶したところでなんの得があろうか」と言われます。自分の敵に「挨拶」をし、その人のために「祈る」ことを心がけましょう。
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