パウロの回心によせて

「主よ、あなたはどなたですか」
使徒言行録 26 章15節

捜真バプテスト教会教会員 東京神学大学四年生 藤巻正悟

三鷹の森に暮らす私は、いつも不思議に思うことがあります。国際基督教大学から東京神学大学へと至る、鬱蒼とした森の中を抜ける小道は、「出家の道」という名前が付けられているのです。正式名称か否かは知る由もありませんが、学生も教師も職員もその道を「出家の道」と呼び、それ以外の名前は聞いたことがありません。キリスト教では神に生涯を献げることを「献身」と言い、「出家」という用語はまず使われません。しかし東神大関係者はこぞって「献身の道」でなく「出家の道」と呼んで憚らないのです。単なる冗談と言えばそれまでですが、不思議な感覚です。実は私は出家の道を歩く度に、自分はいわば出家の身なのだと実感させられ、身の引き締まるような静謐な思いが漲るのです。

 言うまでもなく、道の果てには東京神学大学という神学校が建っています。神学校では神学生たちが神学を勉強しており、私も牧師となるために神学生として神学校で神学を学んでいます。出家の道の行き着く先は、どうやら神学ということになるようです。それでは神学生たちが日々学んでいる神学とは、一体何物なのでしょうか?

 神学、それは「主よ、あなたはどなたですか」と問い続ける営みに他なりません。パウロが決定的に回心するきっかけとなったこの問いを、絶えず聖書に聞きながら問い続けることこそが、神学の本質であると言えましょう。神学生ならば神のことが何もかもわかっているだろうというのは、大変な誤解です。それどころか神に身を献げたはずの者にとってさえ、神がわからなくなってしまうということは多々あるのです。恥ずかしながら私も決して例外ではありません。

 パウロという人物は、かつての名をサウロと言い、教養あるエリートにして熱心なユダヤ教徒でした。そして彼はキリスト教を憎み、激しく迫害していました。「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」( 9章1節) いたと聖書に記されています。またパウロ自身の告白として「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした」( 22章4節) というのです。

しかしながら、キリスト教徒を迫害していたこの人物は、キリストという真の神に出会ったことで人生が180度転換してしまいました。迫害の旅を勇んで続けていた彼は、突然天からの強い光に照らされて、地面に倒れ込んでしまいます。その時パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と心の底から問うたの神を求めるこの真剣な問いこそ、パウロが迫害者から伝道者へという劇的かつ全人格的な回心をするに至った出発点となったのでした。

 聖書という書物は、その全体を通じて、今も生きて働いておられる神を証言しています。聖書の言葉に聞けば、神がどのようなお方であるかが極めてはっきりとわかります。つまり「主よ、あなたはどなたですか」と真剣に問いつつ聖書に聞く時、その答えは自ずと示されているのです。

捜真の皆様が礼拝の生活を通じて聖書の言葉に深く養われ、そして今生ける主の御業を深く悟ることができるよう、三鷹の森から祈っております。

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