生粋の濱っこ、竹内北子姉。

ファインダーを通して観た捜真教会の歴史を語って頂きます。


――教会ではいつも写真を撮られていますね。

竹内:戦時中だったのですが女学校を卒業し、2年勤めたあと、結核とわかって仙台に療養にいっておりました。
22歳ぐらいで戻り、父からカメラをもらいました。病気の療養もかねて、近所の家をまわり、赤ちゃんの写真を撮らせていただいておりました。
戦後だったのか赤ちゃんの写真を撮らせてもらうと、ほとんどの方が写真を買ってくれました。そして、赤ちゃんの成長にあわせて毎月写真を買って下さいまいした。

――バプテスマは学校で受けられたんですか。

竹内:8歳位から女学校の近くに暮らしておりました。1937年に女学校へ入学し、エーカック先生に習いました。入学した年の12月にバプテストリーを備えたカンバース記念講堂が建堂されたことを覚えております。そこで最初にバプテスマを受けたのは内藤先生を含む小学5年生の3人でした。私は1941年11月に受けました。

戦時中ですので、女学校も1クラスが小隊の単位となり、私は小隊の副隊長になったと記憶しています。当時キリスト教の学校が圧迫される中で坂田祐先生は礼拝を守るため相当なご苦労をされたと思います。先生は各クラスの指導者養成訓練を御殿場で行われました。先生の働きにより、御殿場では、坂田先生をはじめ先生方が聖書を教え、私たちのために熱心のお祈りをしてくださいました。
そして集中的に教え育てられてキリストに導かれました。当時は学校の中に教会があったので、卒業してもそこへ通っておりました。20人ぐらいで礼拝を守っていたと記憶しております。捜真教会は1948年5月9日から、女学校の教室の一室で礼拝を行っておりましたが、女学校の校舎再建の際、同じ敷地内に教会を建てましたので、そちらに移りました。

――当時のグループは今とは違ったのでしょうか。

竹内:婦人会は1941年1月にできたのですが、当時はミセスばかりのグループでしたので、私はアダルトのグループにはいっておりました。新堀さん、米山さん、内田さんがおられ、当時、サラリーマンは日曜日が休めなかったので、月に一度平日の夜集まり、食事をし、聖書研究を行いました。宣教師が来られるとアダルトに誘いました。

今の森島牧人牧師のお父様の卯之助先生がよく面倒を見てくださいました。男女の高校生による「ともしび会」、その上に専門学校生、大学生による「青年会」、そして「レムナント」がありました。昔は遊ぶところがなかったので、中学生は「モンキーグループ」に入り、教会を楽しみにしていました。小野慈美先生の時に青年会と、壮年会、婦人会に分けられました。

婦人会も設立時は、平日木曜日に集会をしていましたが、それでは人が集まりにくいということで、1980年から例会を第2日曜日に変更しました。婦人会は現在女性会となりましたが、「婦人会50年の歩み」に詳しい歴史が載っております。

――日曜日の礼拝の様子はいかがでしょう。



正月3 日に千葉牧師宅にて
(1960 年頃)


1948年女学校最初の2棟
竹内:礼拝の流れは千葉先生の時代から変わっておりません。昔より教会に残りやすくなったように思えます。始めは礼拝が終わるとすぐに家に帰っていましたが、そのうち礼拝後に薩摩芋やコーヒーが振舞われました。天野先生がアメリカからコーヒーメーカーを買って来て下さったのをきっかけにコーヒーが定着しました。その後、教会全体として川井さんが中心となり、現在のカレーショップへと変化していきました。今、礼拝が終わると、みんなで食卓を囲めるようになったことは素晴らしいと思います。

――ありがとうございました。今、60周年に向けて教会員の写真を撮って頂いていますが、よろしくお願いいたします。

インタビュ―:高橋昌博( 本誌) 2007.12.10

Church and my life vol.9 Kitako Takeuchi
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