クワイヤー 岡田初子さん

賛美こそ自由の証

「今は体が動かなくなり一人前でないことが残念ですが、今私に出来ることをしていきたいと思います。
私は賛美が好きなので伝える言葉を大事にしたいと思います。」とインタビューをまとめた岡田さん、
聴く人の心を捉える秘密を、賛美を愛し続ける力を、岡田さん自身にひもといでいただきました。
それは歌う技術でしょうか、それとも生き方に理由があるのでしょうか。

――教会へ行かれた経緯を教えていただけますか。

岡田:女学校を卒業して、すぐに菊名の区役所に勤めました。配属されたのは市民税を扱う部署でした。当時は全て手作業で、市民税のお知らせを職員が全ての家に
配ったり、固定資産税も手で計算しておりましたので大変でした。またミッションスクールで教えられたので人に親切にしたいと思うのですが、余計なことはしなくて良いという雰囲気が職場にはありました。仕事を始めて半年たったとき仕事だけではいけないと思うようになりました。聖書を読んだり賛美歌が頭によぎり、友人の多い捜真教会へ行くようになりました。


――バプテスマを受けられたのは。

岡田:聖句や賛美歌に後押しされなければ、この先一人で生きていけるだろうかと思い、千葉先生よりバプテスマを受けました。今考えると女学校で聖書や賛美歌に親しんでいたからだと思います。学校での種まきは大事なことだと思います。私は賛美歌がとにかく好きだったので、すぐに教会の聖歌隊に入りました。

――捜真の中に聖歌隊があったにもかかわらす、外のクワイヤーにも参加されたんですよね。

岡田:1953年に新子安の教会の方によって、超教派の横浜クリスチャンクワイヤーができましたので参加しました。仕事を終えてからも、毎日遅くまで伝道集会に行って、日曜日は教会で出ていましたから家の人には怒られました。ですから主人と結婚した後は伝道集会に行くのをやめなければならないと思っていたら、「僕も行くよ」と言って一緒に参加してくれたことはとても嬉しかったです。

――清瀬の多摩全生園へも行かれたとか。

岡田:ハンセン病の療養所である多摩全生園へ病床伝道として行くといったときは家族に「なんでそんなところに行くんだ」と反対されました。私たちが行った頃は、不治の病として、顔や手足などの後遺症が目立つことから、国は恐ろしい伝染病として終生療養所に隔離するとう「らい予防法」という厳しい政策をとっていました。

施設に入るときは全身、頭から靴のそこまで消毒する状態でした。顔が崩れた方を見るのは初めてでしたし、指がないため、拍手の音がこつこつ、カソコソと言うような音でしたので、本当に驚きました。

25 歳の頃、クワイヤーで
私自身本当に恵まれた生活をしてきたと思わされた時でした。また18歳で発病し、家族と引き裂かれて50年間園で過ごした方が、「神は私の魂を愛するが故に、人生最悪のらいという病を与え、一筋縄では手に負えない私の根性を救うために非常手段をとられらのでしょう。病気をして入院した病院でいただいた1冊の聖書から導かれたのでした。..」と実際に崩れていく肉体を持ちながら輝いたお顔で力強く、証をされたことは今でも覚えております。

――本日は貴重なお話をありがとうございました。

言葉はつたなく又知恵もなくもイエスの深い愛は語りうべし
おのが弱さに悩む時も、み霊は我に力たまわん。 
“ギレアデの薬草” より

インタビュ―:高橋昌博 2007.10.13

Church and my life vol.8 Hatsuko Okada
 お問い合せ おちぼ一覧へ戻る トップページへ戻る